special interview
special interview - ベニー松山(前編)
「Wizardry」シリーズ 45周年を記念し、本特設サイトでは、Wizardryに関わった著名人とコラボレーションした特別企画を掲載していきます。 今回は、80年代当時にゲーム雑誌のライターとして『ウィザードリィ』の関連記事に携わったのみならず、小説版の執筆や派生ゲームのシナリオなど多方面で活躍、シリーズの魅力の伝道者として存在感を放ったベニー松山さんにお話を伺いました。
──ベニー松山さんは、2年前にも、まさにこの場所で『ウィザードリィ』にまつわるインタビューをさせていただきました。改めて、『ウィザードリィ』を取り巻く様々な動きについて、感慨のようなものはありますか?
いや、本当にね。リメイク版で遊べるようになったことは本当に喜ばしいですよ。僕の書いた小説(編注:小説『小説ウィザードリィ 隣り合わせの灰と青春』『小説ウィザードリィII 風よ。龍に届いているか』)を今読んでも、元になったゲームをやってもらわないとわからない部分というのが多分にあると思うんで。それがわかると面白くなるようにって、書いていましたから
『ウィザードリィ』にハマった高校時代
──『ウィザードリィ』というか、パソコンゲームと遭遇されたのはいつ頃に?
中学生の頃にNECのPC-6001というパソコンを買ったのが最初になるかな。それ以前からアーケードゲームが好きだったのだけど、家でもゲームできるし、その気になれば思い通りのゲームを自分でも作れるっていうのが良かった
──RPG(ロールプレイングゲーム)が日本で根付く直前くらいの時期ですね。
あの頃は、工学社の『I/O』って雑誌に載っていたプログラムを打ち込んで、よく遊びました。自分でも投稿して、ソフトが商品化されたりもしましたよ。で、高校でコンピュータ研究会に入りました。いろんなパソコンやゲームを持ってる人がいると思ったんですね。その中に、Apple IIe(編注:Apple IIシリーズの3番目のモデルで、1983年1月発売)と、タイトルだけは知っていた『ウィザードリィ』を持っている先輩がいた。アメリカにRPGというのがあって、『ウィザードリィ』という作品があるって、雑誌でよく紹介されていたんですよね。当時はまだ、世界観に広がりがあって、物語とくっついたゲームっていうのがあまりなかった。その面をクリアすれば終わり、みたいなゲームが大半だったと思うんですよ。だから、ダンジョンの中に世界が広がっていると雑誌で読んで「すごく面白そうだ」と思っていたんです。それで、先輩のお宅に1年生5、6人でお邪魔して『ウィザードリィ』を触らせてもらったんだけど、最初はキャラクターが6人いるからって、1人1人が担当することにして、交代しながら操作したわけですよ。だけど、すぐに問題が出てね。そのやり方だと、1人が「じゃあ俺は逃げる」って“RUN”(編注:逃亡のコマンド)を選んだら全員逃げることになっちゃう。でも、逃げられなくて、全滅する(一同笑)。そんな遊び方をしながらも、これは今までやったことがないゲームだって盛り上がって、1年生の友達が「俺、買うわ!」ってお年玉貯金を全部突っ込んで自分も買っちゃった。秋葉原とかで売っていたTOPAZって10万円くらいのコンパチ品を、ディスクドライブも2台つけて、20万円くらいかな。それと、もちろん『ウィザードリィ』も
──当時、Apple II用ソフトの輸入販売をやっていたスタークラフトさんのカタログがここにあるのですけど、シナリオ1は1万円とありますね。2は1万5千円。
高! で、その友達の家が学校の近くにあったので、今度はそこに入り浸って遊ばせてもらったんですよ。そうやって、ワードナを倒すところまでそいつの家で遊ばせてもらいました。まあ、その後、普通に地上に帰っちゃって、装備を全部取り上げられた時は、軽いショックを受けたな(笑)
──海外ソフトということもあって、そういう情報が出回っていなかった時代ですものね。
とりあえず、友達のところではシナリオ2まで遊ばせてもらいました

プログラマーからライターへ
──1983年頃に投稿ゲームが製品化もされたというと、それこそ中村光一さんや森田和郎さんのようなゲームプログラマーの道を歩まれてもおかしくない感じですよね。
最初の頃はね、パソコンへの接し方はプログラマー寄りだったんですよ。ただ、高校2年ぐらいの時に、僕はプログラムを推敲するのが嫌いだって気づいちゃった。優秀なプログラマーの話を聞くと、こうすることで1バイト減るとか、こうすることで処理速度がちょっと上がるみたいなテクニックを駆使されているじゃないですか。だけど、それを聞いて、じゃあ自分もそれをやってみようとは思わなかった。「動けばいいじゃん」って。それで、向いていないかもしれないなと。ただ、ちょうど文章とか小説とかを書き始めてみた頃で、そちらを推敲するのは得意だし、好きだなと思い始めた
──小説を書くようになったきっかけは?
コンピュータ研究会にいた別の友達が、小説を書くのが趣味で、自分が書いた小説をよく見せてくれたんですね。で、「あ、これありだな、自分でも書いてみるか」と、お互いに見せあいっこを始めた。題材はやっぱり剣と魔法と冒険。ちょうどこの頃、マイクル・ムアコック(編注:『エルリック・サーガ』シリーズなどで知られる米国のSF・ファンタジー作家)とかそのへんを読み始めて、ファンタジーを面白いなと思っていたので、そういう小説を書いたりしました
──つまり、アマチュア時代に書かれた『ウィザードリィ』小説が……
っぽいものがあります。ダンジョン探索の話。流石にもう、お見せできるクオリティのものではないので。今見られたら、恥ずかしくて死んじゃうかな(笑)
──そうして物書き方面に進んでいかれたのですね。
ライターのアルバイトを始めたのも、自分から門を叩きに行ったというわけではなくて。高校3年の初めくらいかな。コンピューター研究会の後輩が、知り合いのソフトハウスでMSX(編注:当時、アスキーが音頭を取って各社から販売された、統一規格の8ビットパソコン)のプログラムをできる人間を探しているってことで、声をかけられたんですよ。で、一年ほどそこでプログラムを書いていたんだけど、さっき話したように(プログラマーは)向いてないんじゃないかと思い始めた頃で。そんな時、やっぱりその会社に入り浸っていた年下のゲーマーがいて、『マイコンBASICマガジン』でライターをやっていたんですね。その彼が、自分は来年から受験の準備をしなきゃいけないので、代わりにどうだって話をされて、電波新聞社に連れて行かれたのが最初のきっかけです
──こうして、ライター“TOMMY”(編注:『マイコンBASICマガジン』時代のペンネーム)が誕生したわけですね。
『ウィザードリィ』日本に上陸!
──『マイコンBASICマガジン』別冊の『チャレンジ!!パソコンAVG&RPGIII』に掲載された攻略記事が、最初の『ウィザードリィ』関連のお仕事とのこと。あれは、アスキーから販売された国産パソコンの移植版を扱っていましたが、古参ユーザーとして、日本版に触れた時の最初の印象はどのようなものでしたか?
ああ、IBM-PC版をベースにしたんだな、と。Apple II版の頃の感覚でプレイしていて、POISON GIANTが出たんで、こんなのMAKANITO(編注:魔法使いの窒息呪文だが、Apple II版とそれ以降の機種で効果対象が異なる)でポイだよって打ったら、全然効かずにこっちが全滅したんでびっくりしました。僕、POISON GIANTが大好きだったんですよ。なんでしょうね、大当たりを引いたみたいな、アドレナリンが出るくらい好きだったので、本当にがっかりした
──なるほど、カタルシスポイントがなくなってしまった。
どうして変えちゃったのかなあ。というか、Apple II版の挙動が、むしろ本来の仕様と違っちゃっていたんですかね。だから、リメイク版では昔の仕様に戻っていて、そこが嬉しかったな

思い出のモンスターやアイテム
──その頃には、『ウィザードリィ』シリーズも既に5作目あたりまで出ていましたよね。
大学時代に Apple IIc(編注:1984年発売のコンパクト・モデル)を貸してもらえる機会があって、それでひととおり遊んでいました
──旧シリーズのお好きなタイトル、モンスターやプレイ中の思い出などを聞きたいです。
やっぱり、圧倒的に好きなのが、奇跡のバランスだと思っていたシナリオ1ですね。それもApple II版で、POISON GIANTがMAKANITOで死んでくれるところも含めて。あとは、GREATER DEMONの絶望感。あれはすごかった。何かの間違いじゃないかっていうくらい強く感じましたね。まあ、カシナートの剣が手に入ってからは、すごく安定して勝てる感じになるじゃないですか。それでいい気になっていると、線画の牛みたいなGREATER DEMONが出てきて。まあでも勝てるでしょって攻撃してみると、全然歯が立たない。それと、Apple II版って、奇襲からの呪文攻撃がOKの仕様だったんですよね。だから、敵に驚かされた!と思ったら、そのままMADALTOを5連発食らって全滅みたいな、不慮の事故もありました
──『隣り合わせの灰と青春』も、GREATER DEMONで死者が出たところから始まりますね。
あれはインパクトがありましたから。それと、これも小説に反映されているんですけど、思い出深いアイテムって言えばやっぱり村正です。手に入ると、話が変わってくるという。そういうところも、自分の体験談を書いている感覚でした。思い出深い体験というのは、安定している時じゃないんですよ。全滅の憂き目に遭う時なんかが、後から考えると一番楽しいんです。このボロボロの状態で、なんとか街までたどり着きたいとか。なんだかんだ言って、そういうのがみんな楽しいんですよ。ただ、そういう思い出はだいたいシナリオ1で、2になるとキャラクターたちもめちゃくちゃ強くなっているから、そういう明確なピンチがなかなか訪れなくなっちゃう。だから、楽しみどころはゲーム中のギミックをどう解消するかとか、見知らぬモンスターへの対処とかになっていきましたね
──『灰と青春』では、FLACKの描写もかなり印象的でした。
あれはもう、ファミコン版の末弥純さんのデザインが素晴らしくて、そのイメージです。悪夢の中で出会いそうな、道化師みたいな姿。FLACKって、何だか由来がわからないモンスターですよね。Apple II版だと外見はスライム系のモンスターだし
──アスキーから出ていた『ウィザードリィ モンスターズマニュアル』のイラストからの発想っぽかったですよね。微妙に特定のタレントを連想させられる、出っ歯の小男の姿。
どうしてああいう姿にしたのか、謎だよね

『ウィザードリィ』の伝道者
──JICC出版局(編注:現・宝島社)の『ファミコン必勝本』で、別の名義でお仕事をされるようになった経緯は?
『マイコンBASICマガジン』と『ファミコン必勝本』の両方で仕事をしていたライターさんがいて、ある時、その方に「きみ、もっとできるだろう? 俺が『ファミコン必勝本』を紹介してやるから、ベーマガには内緒で……な!」と誘われまして。たしか、1987年になってからかな。あの雑誌は隔週刊に切り替えた後で、人手が欲しかったんです
──『ウィザードリィ』のコミカライズをされた石垣(環)さんも、とにかく人手が足りないからと誘われたと仰られていました。
最初の仕事がファミコンの『プロゴルファー猿』だったんですけれど、「ペンネームは何にする?」と聞かれて急遽考えたんですよ。で、そのゲームに紅蜂(べにばち)というキャラクターが出てくるので「ベニー」にして、座りがいいから「松山」に
──つまり、最初に担当したのが別のゲームであれば、別のペンネームに。
そういうことです。あの頃はまあね、そんなに長く使うことはないだろうと……40年も使うことになっちゃった
参考年譜
- 1976年10月 『I/O』創刊。(工学社)
- 1981年11月 NEC PC-6001発売。
- 1982年6月 『マイコンBASICマガジン』創刊。(電波新聞社)
- 1984年4月 Apple IIc日米で同時期に発売。
- 1985年11月 日本PC版『ウィザードリィ』発売開始。
- 1986年3月 月刊『ファミコン必勝本』創刊。(宝島社、JICC)
- 1986年9月 『ファミコン必勝本』隔週刊行に。
- 1987年10月 『チャレンジパソコンAVG&RPGIII』(電波新聞社)
- 1987年12月 ファミコン版『ウィザードリィ』発売。
- 1988年2月 『ファミコン必勝本』Vol.5より『隣り合わせの灰と青春』連載開始。
- 1988年10月 石垣環『ウィザードリィ』第一巻発売。
- 1988年11月 『小説ウィザードリィ 隣り合わせの灰と青春』発売。
- 1989年8月 『ウィザードリィのすべて』発売。
ベニー松山(べにー・まつやま)
(株)/スタジオベントスタッフ所属のライター。大学時代より、『マイコンBASICマガジン』(電波新聞社、TOMMY名義)、『ファミコン必勝本』(JICC出版局)などの雑誌記事や攻略本の制作に携わり、特に『ウィザードリィ』の関連記事を数多く手掛け、ファンの拡大に尽力した。『ファミコン必勝本』に連載した小説『隣り合わせの灰と青春』とその続編『風よ、龍に届いているか』はゲームノベライズの古典として高い評価を受け、『ウィザードリィ・外伝II 古代皇帝の呪い』以降はシナリオライターとしても活躍している。
取材・文:森瀬繚